用語解説コーナー 血が滾舞台用語辞典



屋号(やごう)
2012.12.20 OA


本来はお店の名前を示す『屋号』という言葉。「○○屋」という形を取るのが主で、現在も多くの企業が商号として用いています。花火大会で叫ばれる「たまや!」「かぎや!」という掛け声も、かつて実在した名花火師の店名=屋号「玉屋」「鍵屋」が元になっているという事で有名ですね。
でもお店を出しての商売とは関係なさそうなのに、屋号で呼ばれる人たちがいますよね?そう、歌舞伎俳優。彼らはそれぞれ名前とは別に『屋号』を持っています。ではなぜ、歌舞伎俳優が屋号を持つようになったのか?

時は江戸時代。当時は「士農工商」の身分制度がある封建社会で、苗字を名乗るのが許されていたのは武士だけ(例えば当時の超人気俳優市川団十郎でも、「市川」は苗字ではなく、あくまでも芸名)。特に江戸初期、歌舞伎俳優は「河原乞食」という蔑称で呼ばれていたほど身分が低く、「商」よりさらに下の存在でした。
しかし、役者の人気上昇とともにその経済力、発言力などの影響が無視できなくなります。ぶっちゃけ、上層階級の武士やその家族にだってファンは大勢いました。そこで1708年(宝永五年)、幕府は町奉行所による裁きで役者を「良民(奴隷などではない、一般の民)」と認めました。その結果、それまで裏路地や横丁に住まなければならなかった役者たちが、表通りに住む事が出来るようになったのです。当時、表通りは商家と決まっていたため、財力に余裕のある役者のなかには実家の生業の「江戸支店」を出してみたり、新規に自らの商店を始めたりする者もいたそうです(化粧屋とか小間物屋が多かったとか)。すると、そもそも副業からの収入が生計の安定には不可欠だった脇役の役者たちも軒なみ右へならえで、こぞって小規模な店を出すようになりました。こうして、役者をそれぞれの屋号で呼ぶようになったのです。

また、これに倣って、落語・講談・浪曲など、伝統芸能の諸分野においても屋号が用いられるようになりました。落語の「○○亭」という屋号は、皆さんもよく耳にすると思います。(こちらは「亭号」という言い方もしますが)

屋号の由来は、自身や実家の経営する商店の屋号のほかにも、幼少の頃に自分が丁稚奉公していた商店の屋号を借用したり、信奉する社寺の山号や出身の地名を取ったりしたものなど、さまざまです。実際のところ、他俳優との区別が出来ればいいのであって、由来はあまり重要ではなかったようですね。

というわけで、現在では100以上の屋号が用いられているとか。親子、一族であっても屋号が同じとは限らないし、同じ名跡(代々継承される名前)でも、代によって違う屋号の場合もあります。このあたりは複雑な事情や歌舞伎界の長い歴史が絡んでくるので、門外漢にはややこしいですね。

歌舞伎の世界では劇場の内外に関わらず役者を名で直接呼ぶのは失礼にあたるとされていて、通常はこの屋号で話すのが礼儀になっているとか。決めシーンで客席から役者に声をかける時も、この屋号で声をかけますよね。

それでは最後に、テレビなどでも有名な現代歌舞伎俳優たちの屋号をいくつかご紹介します。

成田屋 / 市川團十郎、市川海老蔵
※この「成田屋」を市川宗家が名乗ったのが、歌舞伎の屋号のはじまりとされています。
そんなわけで、成田屋という屋号は、江戸歌舞伎の中でも最高位といえる格式なんだとか。

高麗屋 / 松本幸四郎、市川染五郎
※初代松本幸四郎が若い頃に丁稚奉公していた江戸神田の「高麗屋」という商店が由来。
上記二人は芸名の苗字こそ違いますが、親子ですね。

播磨屋 / 中村吉右衛門
※初代中村歌六が養子に出された商店「播磨屋」が由来。
吉右衛門さんは『鬼平犯科帳』でお馴染みですね。先ほどの松本幸四郎さんの弟さんです。

中村屋 / 中村勘三郎、中村勘九郎、中村七之助
※江戸三座の中でも最も古い中村座が由来。珍しく屋号と名跡の苗字が同じになってます。『勘三郎』の名跡は十七代目以降、この屋号を用いていて、十六代までは別の屋号です。

澤瀉屋 / 市川猿之助、市川中車(香川照之)
※「澤瀉(おもだか)」というのは、薬用に用いられる植物。初代市川猿之助の生家がこの澤瀉を扱う薬屋だったため、歌舞伎の屋号を「澤瀉屋」にしたんだとか。

萬屋  / 中村獅童
※1971年、往年の大スター中村錦之助らが播磨屋から独立してできた屋号。本当に最近できたものですね。中村錦之助はこれを機に、「萬屋錦之介」を名乗りました。

山城屋 / 坂田藤十郎
※ずっと絶えていたのが、2005年に231年ぶりに『坂田藤十郎』を襲名した事で復活した屋号。
坂田藤十郎さんは現代歌舞伎の大看板で人間国宝。妻は扇千景さん、妹は中村玉緒さん。


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